人新世のパンツ論〈花鳥風月編〉
実際、誰しもそうであると思うのだが、私の場合、いかなる純良な成り行きであったとしても、遠い過去のセックスの痕跡は残したくない性分である。
だから、その手の記録の類いは、一切合切残していないはずだ。「記録が無い」ということによって、〈ある人と会ったことはかろうじて思い出せる〉かもしれないけれど、〈セックスをした〉かどうかまでは、記憶をたどることはできない。もう既に遠い過去のことであり、「記録が無い」から――。誰とキスをしたとか、誰とはキスをしなかったといった些末な記憶など、悉く消えたり薄れてしまっているのだから。
記憶が泡沫となって消えゆく運命にあることに、抗えない。若い人はそんな感覚はありえないと思うかもしれないが、事実そうなのである。
そうであるにもかかわらず、何か大きなヘマをした――気がした。
骨董と化していた学習机
それは1か月前のこと。
大掃除をするべく、小部屋の机の、“開かずの引き出し”のことを思い出したのだった。それは、小学1年生になる時に親が買ってくれた学習机。木製のたいへん頑丈な造り。上部に本棚があり、小型のスタンドライトも備えられてはいるが、もうだいぶ埃をかぶって沈着したままであった。
引き出しは、大きいのや小さいのが5つもある。しかし、私にとって学習机というのは名ばかりで、中学生くらいの頃からこの机は、単に物入れ、物置場としか使っていなかったのだ。
その頃よく聴いていたレコードや録音したカセットテープ、あるいは鉛筆やセロテープや画鋲といった文房具、それから空瓶のヘリオトロープの香水、窓拭き用の洗浄スプレーなどが机の上や引き出しの中に放置され、雑用品の物置き場として長年骨董化していたのだった。
さすがに机は頑丈だが、数十年の歳月が経ち、全体が著しく古びてきたので、ごちゃごちゃになっているものを片付けることにしたのである。
そうしてある程度、掃除して、雑然たる状態ではなくなった。部分部分では小綺麗にはなった。が、机の中央部にある引き出しだけは、相変わらずそのまま、“開かずの引き出し”として手を付けず、「見ざる言わざる聞かざる」を決め込んでいたのだ。
とはいえ、もはやそのままにもしておけない…。
重い腰を上げ、数日前、その机の引き出しを数十年ぶりかで開けてみたのである。おそるおそる、おそるおそる――。
カラスがカァーと鳴いた。見れば、懐かしいものがいくつも散乱していた。小学生の時にめっぽう聴いていたクラシック音楽のカセットテープ。古いクレヨン。ウルトラマンレオのシングルCD。鉄製の手品の道具…。
端っこに、妙なものがあった。オレンジ色の紙袋。それと奥には、小さなブルーの紙袋。これは一体何だ? 思い出すことができない。
おもむろにオレンジのほうを手に取り、袋の中を覗いてみた。すると、ぎょっとするものが入っていた。潤滑ゼリーだった。
忘れていた過去の痕跡
半分以上、潤滑ゼリーの液体は残っていた。ブルーの袋も覗いてみた。入っていたのは、コンドームの箱。特殊ゼリー付、ピュアロング。ドラゴンのイラストのパッケージ。“理想的な出産計画に。内側にたっぷりゼリーを施したダブルゼリー加工のコンドームです”。箱の中に小箱が2つ入っていたらしく、片方の1箱はそこに無かった。
こんなものを引き出しにしまっておいたまま、ずっと放置していたのか。憶えがない。さらに奥にあったのは、CF(コンパクトフラッシュ)カードだ。
なんと――。そんなバカな。まさか――。
だが、そのまさかだった。USBアダプターを使い、CFカードのメモリーをパソコンで読み取ってみたのだ。するとメモリーには、画像データファイルが1点保存されていた。2004年6月×日。
その画像をプレビューしてみて驚いた。自分自身が写っていたのである。
そうか。思い出した。京都のホテルの客室で、セックスをした後、シャワーを浴び、何気なく相手に撮られてしまった写真――。着ぐるみ一つ無い私の裸身は、みだらで美しかった。
快楽に耽った夜の、残してはならなかったモノたち。なぜそれが、机の引き出しの中にしまわれてあったのだろうか。当時の意図や行動を思い当てることができない。故意か、偶然か。全くはっきりしないのである。
パンツぐらい、思い出せ
故意であれ偶然であれ、そうして置き去りにしていたモノを見つけてしまった以上、この生涯において誰にも打ち明けず、黙って隠し通せばいいのだ。それだけのこと。しかし私はこれを、あえてパンツの話にすり替えることにした。
その日その時、いったいどんなパンツを穿いていたのか――。
そんなの、憶えているわけがない。
脱いだ後先のことまで記憶がないのだから。「調子を上げるパンツ」なんて気にもしていない頃の、30代だったプライベートの些末。パンツなんて、「絶対なにか穿いていた」に違いないけれど、どんなパンツを穿いていたかなんて、いちいち憶えていない。セックスだって同じ。そんな細かいことまで丁寧に憶えているわけがないのだ。
よく自分が使っていたケータイを、大切に保存して持ってます…なんていう人がいるが、私はその手の習性がない人物である。
その頃誰と通信していたかなんていう自分自身の記録を、過去のケータイから根掘り葉掘り検索して抽出する――なんていう諜報活動的技術は、自己才覚としては不適用だと考えるタチだし、その点木偶の坊だ。だからその蓋然性のミステイクというべきもの、それがあの引き出しの中だったということ。とはいえ、過去のケータイの通信記録よりも揮発性の高い「恐ろしいモノ」だったわけで、この一切合切をトリコロールの赤・青・白のモザイクで加工したい心境である。
そういえば…。そうだった。あの頃は確か、ファッションセンターしまむらでよく下着類を買ってたりしたんじゃない?
そんなことまで思い出してしまっていいのか。
自問自答する。考えてみる。だとすると、穿いていたのは、無難なボクブリかトランクスか。色は黒かグレーか。柄物は好みではなかったはず。絶対に、赤系や白系のパンツは穿いていない――と思う。
自分が過去に使ったケータイをそっくり保存しておく習性の人は、例えばあの時買ったパンツのレシートをスクショしていたりして、すぐに調べられたりできるのだろうか。
――どれ、2004年の6月か。なに、しまむら? お、あったあった。2点買ってる。グンゼのボクブリ、色はブラック。合わせて1,780円也。
行った先のホテルだってわかるのか? 宿泊代はいくら。立ち寄ったレストランでなにを食った? 旅行の前後で誰とメールでやりとりしていたか? それはどんな内容だったか?…。
恐ろしすぎないか、そんな人生。20年前に穿いていたパンツが的確に割り出せる能力なんて。俺は刑事か? スパイか? その時誰と会っていたか、セックスの相手が誰だったかよりも、パンツの某がはっきりと判明するほうのが怖い。
むろん、そんな自分でなくてよかった。しかしながらこうやって、完全に忘れていたことを自らひっぺがえされることが、人生のうちにまま、あるということだ。この場合は、“開かずの引き出し”を開けてしまったために――。
ともかくこの話、あまり分厚いオブラートでくるまず、そのままここに記載しておくことにしたわけである。
おまえは本当にパンツを穿いていたのか
もう一度、パンツの話にすり替えてみよう。
ヒトは一生のうちに何枚パンツを穿くのか?
考えてみたことなんてなかった。例えば1年に15枚パンツを穿き替えるとして、90歳まで生きれば1,350枚。100歳まで生きれば1,500枚。大雑把に計算すると、そういうことになる。これがもし、1年に3枚しか穿き替えない人だったら、90歳で270枚。100歳でたった300枚である。
いずれにしたって、たったそんなもんか。一生のうちに穿くパンツの総数が、2,000枚だって少ないと思ってしまう。
でも、それを全部スクショして記録しておこうなんていうのは、気持ちの悪いことだ。それはさすがにやろうとは思わないし、できる話ではない。母親と息子が共謀するのであれば、別である。が、やってしまえる人は、たぶん世の中に何人かいるのだろう。
たいへん気持ち悪い話。
しかし、だ。あの頃よく穿いていたパンツは何? なんて、小学生の頃はグンゼ、中高生の頃は日清紡かレナウンのブリーフ…くらいに思い出せるほうがいい。
悉く、あの時のパンツは何穿いてたか? が割り出せる才覚は気持ち悪いが、少しくらいパンツのことを思い馳せる精神的余裕は持っていたい。まして、自分の穿いてきたパンツなんて知らんわ――なんていって卑下するヒトはもっと酷い。そこまでパンツを見下さないでほしいし、そうやって見下してきたモノをずっと穿き続けているアナタ自身も、それと同等ということになってしまうのだから。
あの時、ああいうことになったのは、どんなパンツを穿いていたからか?
そんな理屈で考える人は、おそらく一人もいない。でも、ハンカチを持ち歩かない男とか、トイレで手を洗わない男には成り下がりたくない。これ、わかるだろうか。
だから、私はあえて考えてみるべきだと思う。
あの時、私は、アナタは、どんなパンツを穿いていた? どんなパンツを穿くべきだった?
危ない橋は渡らないつもりだが、今度の「人新世のパンツ論」はけっこう危ないというより超絶かもしれない。あらかじめ、それを断っておく。
私は幾分か自分のことをさらけ出すかもしれないが、アナタはさらけ出さずに全てを守っていてほしい。パンツがアナタの人生を変えていく、最大の守り神であることが、はっきりとしてくるだろう。それは嘘ではないことなのである。